[158] [157] [156] [155] [154] [153] [152] [151] [150] [149] [148]
[PR]
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
虚無感、憂鬱、生、死
だれでも生活をしていればふと虚無感に襲われる事ありますよね。
「あれ?なんで私は生きているんだろ?」
Cockroachの「Dead start」では
_・・僕が行く、方向を示す、足のつま先には常に死が付着している
・・生を終え死に進め
こんな感じで、客観的にみると自暴自棄?って感じの歌詞になっています。
しかし、こういう歌詞に共感できるっていうのも事実です。
こういう事を考えている時、絶対に意識しているのが生、死、の問題です。
だけど、生はなんとなくわかったとしても死ってのが分からない。
だから悩み続ける。
通常、空を意識しないと地面を意識することは出来ません。
言い換えれば、表があるから裏があるってわけです。
それら二つは目に見えているからこそ完全な対比が可能となるのです。
それでは、生に対する死は見えるものでしょうか?
もちろん他人の死は見る事が出来ます。
しかし、自分の生を感じる事が出来ても自分の死を感じる事は不可能なのです。
そこで宗教とかでは、神が命を作りーとかなんとかで、
この問題を根本的にすり替える。
人間が根本的に持っている死に対する不安を、
一人称を【私】ではなく【神】にすることで生も死も感じているような錯覚を見せるのです。
【神】を一人称にしている以上、これで安心したあなたは【私】の存在をものすごーく軽く見始めるのです。
だから、自分の死なんて、大いなる神の前ではもはや不安に考える、悩むに足りないものへと変わり安心できる。
まぁ断言しているわりには、宗教の勉強した事ないし正しい事を言っているかどうかは自分でも不明なのですが。
ちなみに宗教批判のつもりはありません。あくまで個人の考えとして全文捕えてください。
正直に言えばこういった宗教はあまり好みじゃありません。
友達の宗教人は「神のお陰で~できた」とか言います。
性格面に対しても「教えで~っていうのがあって、それを実践している」みたいなことをいいます。
あんなに頑張って努力して物事を成し遂げたのは友達自身であるのに、です。
はたから見ていると、自分を認めないその姿が非常にかわいそうに見えます。
教えでーーーって言われてしまうと、
「なんだ、誰かにいわれて優しくしてくれるだけか。」みたいに捕えてしまいます。
ってか、そもそも教えがないとヒトに優しくする事すら、
人間関係を作ることすらできないんですか?って思ってしまう。
まるでロボットを相手にしているかのようです。
頭の中を外から操縦されて動いているだけに見えてしまうのです。
本当のこいつはどこにあるんだろ?
そう思ってしまう事は多々あります。
とはいえちょこちょこ書いているように、
研究をしている人間ですのでその辺は考察だけにしますが。
目の前にあるものが事実って思う事が私の基本的考え方でもありますから。
そうやってシンプルに考えないと、
人間の奥底なんて本人ですら分かっているかどうか危ういし、
考えても意味のない事でもある。
疑心暗鬼になることこそ、人間関係において最も大敵だと思うので。
なーんか話がそれてきたのでこのくらいにしようと思います。
「あれ?なんで私は生きているんだろ?」
「生きていても仕方ないんじゃないんだろうか?」
「毎日同じことの繰り返しだし、生きてる必要なんてないんじゃないか?」
あるいは、
「今こんなに頑張ったって、自分が死んだ時何も残らないんじゃないか?」
「そもそも自分は世の中に必要とされていない人間なのじゃないか?」
こういう感じで虚無感に襲われると思います。
そして、何もやる気が無くなっていってそのまま鬱状態に。。
歌の中でもこんな感じをにおわせる歌詞ってあると思います。
Chage & Askaの「迷宮のRepricant」では
_もしも死んだら、僕が死んだら、誰かの夢が朝になった、
そう思えばいい。
ムックの「死して塊」では
_あぁ、生きても生きてもやがては塊、
流れる血液さえ生きてる証にはならず
「そもそも自分は世の中に必要とされていない人間なのじゃないか?」
こういう感じで虚無感に襲われると思います。
そして、何もやる気が無くなっていってそのまま鬱状態に。。
歌の中でもこんな感じをにおわせる歌詞ってあると思います。
Chage & Askaの「迷宮のRepricant」では
_もしも死んだら、僕が死んだら、誰かの夢が朝になった、
そう思えばいい。
ムックの「死して塊」では
_あぁ、生きても生きてもやがては塊、
流れる血液さえ生きてる証にはならず
Cockroachの「Dead start」では
_・・僕が行く、方向を示す、足のつま先には常に死が付着している
・・生を終え死に進め
こんな感じで、客観的にみると自暴自棄?って感じの歌詞になっています。
しかし、こういう歌詞に共感できるっていうのも事実です。
こういう事を考えている時、絶対に意識しているのが生、死、の問題です。
だけど、生はなんとなくわかったとしても死ってのが分からない。
だから悩み続ける。
通常、空を意識しないと地面を意識することは出来ません。
言い換えれば、表があるから裏があるってわけです。
それら二つは目に見えているからこそ完全な対比が可能となるのです。
それでは、生に対する死は見えるものでしょうか?
もちろん他人の死は見る事が出来ます。
しかし、自分の生を感じる事が出来ても自分の死を感じる事は不可能なのです。
そこで宗教とかでは、神が命を作りーとかなんとかで、
この問題を根本的にすり替える。
人間が根本的に持っている死に対する不安を、
一人称を【私】ではなく【神】にすることで生も死も感じているような錯覚を見せるのです。
【神】を一人称にしている以上、これで安心したあなたは【私】の存在をものすごーく軽く見始めるのです。
だから、自分の死なんて、大いなる神の前ではもはや不安に考える、悩むに足りないものへと変わり安心できる。
まぁ断言しているわりには、宗教の勉強した事ないし正しい事を言っているかどうかは自分でも不明なのですが。
ちなみに宗教批判のつもりはありません。あくまで個人の考えとして全文捕えてください。
正直に言えばこういった宗教はあまり好みじゃありません。
友達の宗教人は「神のお陰で~できた」とか言います。
性格面に対しても「教えで~っていうのがあって、それを実践している」みたいなことをいいます。
あんなに頑張って努力して物事を成し遂げたのは友達自身であるのに、です。
はたから見ていると、自分を認めないその姿が非常にかわいそうに見えます。
教えでーーーって言われてしまうと、
「なんだ、誰かにいわれて優しくしてくれるだけか。」みたいに捕えてしまいます。
ってか、そもそも教えがないとヒトに優しくする事すら、
人間関係を作ることすらできないんですか?って思ってしまう。
まるでロボットを相手にしているかのようです。
頭の中を外から操縦されて動いているだけに見えてしまうのです。
本当のこいつはどこにあるんだろ?
そう思ってしまう事は多々あります。
とはいえちょこちょこ書いているように、
研究をしている人間ですのでその辺は考察だけにしますが。
目の前にあるものが事実って思う事が私の基本的考え方でもありますから。
そうやってシンプルに考えないと、
人間の奥底なんて本人ですら分かっているかどうか危ういし、
考えても意味のない事でもある。
疑心暗鬼になることこそ、人間関係において最も大敵だと思うので。
なーんか話がそれてきたのでこのくらいにしようと思います。
PR
この記事にコメントする
|
|
|
|
